会社の環境を変えるためには、新市場に出ていくしかない~道外販路開拓開始~
Story
2005年から2012年まで、7年の歳月を塚田博信はたった一人で営業活動を続けていた
2005年、業績の向上を目指し、セイカンは「鉄コンテナ」で道外進出を狙います。今のようにインターネットがない時代。手軽に情報を取れる手段がない中、塚田博信は、営業リストの作成を始め、直接現地を赴き、地図を片手に歩き始めました。まずは九州へ、さらに関東地方、関西地方、そして青森へ。民間企業との実績を少しずつ積み上げて行った日々。その中でも印象的だった青森の農協の受注は、初めての営業から実に7年の時を経てのことでした。塚田博信がなぜ道外に販路を開拓して行ったのか、その先に何が見えてきたのか、その軌跡をご紹介します。
テキスト:外山暁子
北海道外に出ていくことを決めた2つの理由
道内で農協以外の販路を徐々に開拓しつつあった2000年代始め頃。少しずつ実績は積み上がっていくものの、役員自らが売上を構築している状況でした。
持続的な成長のためには、組織としての再現性が必要と考えていた塚田博信。それには人材育成など組織化をしなければならない。しかし、そこに取り組めるだけの時間と資金がありませんでした。
「このままの環境ではいけない。持続的に成長し、社員の働く環境を改善するためにも、まずは先立つものが必要」。様々な案を考えていた塚田博信でしたが、最終的には「ビジネスを強くする、利益を出すことがまず優先。そこに全力で取り組もう」という結論にいたります。
また、塚田英樹が当時「年商50億」という目標を掲げました。社員の士気や組織の推進力を高めるために掲げられたこの数字は、まだ具体的な道筋はこれから模索する段階ではありましたが、その実現に向けて塚田博信は動き始めました。
「利益をきちんと出せる、強いビジネス」を目指して塚田博信が選んだのは、
「鉄コンテナのマーケットを全国に拡大する」道でした。
最初の挑戦地、九州
2005年、まず塚田博信は道外の営業リストを作成します。鉄コンテナはまだまだ普及しておらず、インターネット上の情報はほぼ皆無。新聞、ニュース、出荷先情報、商談内容からの仮設とスーパーにある加工品の製造会社を調査してゼロからリストを作りました。
「農家戸数が減少するなか、北海道以外でも機械化や大規模化が進み北海道のような農業が広がるという仮説を立てていて、その仮説に確信を持っていました。大規模化は必然だと」。
その仮説もあり、まずは北海道と同じくらい馬鈴薯を生産している九州へ向かいます。当時、宮崎県のある会社のホームページにコンテナらしきものが映っているのを見つけて、まずは宮崎県へ。
行ってみて初めて知ったことは、九州では当時手作業での収穫が主流で、機械化が進む北海道とは異なる農業スタイルが根づいていたこと。作付面積は広く、農業の力強さを感じる一方、コンテナという発想は浸透していませんでした。1週間ほど九州を周りましたが、成果は前述の宮崎県の会社からの見積もり依頼1件のみ。
北海道の次に作付面積の多い九州に受け入れてもらえなければ、全国どこでも難しいのでは? 無謀な挑戦だったのだろうか、と塚田博信は考えていました。
もう一度踏み出す勇気をくれた、青森
九州で手応えを得られず、自らの挑戦と仮説に不安を感じた塚田博信は、戦略の練り直しと準備に一年の時間を費やしました。
2007年、髙橋文男から「青森の農協の名前がついたコンテナを積んでいるトラックを見かけた」との情報がもたらされ、塚田博信はすぐに現地を訪れました。そこには大量に積み上げられたコンテナがあり、「まるで桃源郷のようだった」と語っています。
しかし現実は厳しく、入札の機会に恵まれないまま7年が経ちました。
当時は国からの補助が非常に手厚く、農協側としても実績のある既存業者を選ぶことが、ごく自然な判断だったためです。新参者として信頼を築き、まずは入札のテーブルに乗ることの難しさを、塚田博信はこの時期に痛感しました。
しかし、農協以外への営業活動は地道に続け、集荷会社や、関東の馬鈴薯加工会社、愛知県、兵庫県、香川県、岐阜県などの推進も行っていて、DMも積極的に活用。取引に至ったのは、多くはありませんでしたが、青森の農業法人や集荷会社、岐阜や九州の加工会社、など少しずつ実績ができていました。
「初めて道外でセイカンのコンテナを見た時は本当に誇らしかった」と、にこやかに語る塚田博信。全国地図を会議室の壁に貼って、取引ができた地域にシールを貼っていたそうです。
そして、2012年、補助金制度の終了とともに、ようやく青森県内農協の入札に参加する権利を得ることができました。
参加条件を満たすために、実物をフェリーで運び、数多くの質問に応え、現地から工業試験場に電話をしエビデンスを取得するなど、1週間泊まり込みで努力を重ねました。
そして「ここぞ」という勝負に出て、初めてJA施設案件を受注することができたのです。
営業2課の誕生
2014年、塚田博信は、当時専務だった髙橋文男を伴って、初の同行推進を行いました。石川県の農協から、肥料分配器コエルの試験利用の依頼があり、商品に詳しい髙橋が試験に立ち会うことになりました。その流れで石川~富山~長野を二人で推進。
2013年にコンテナ課として名目上立ち上がっていた道外推進部隊は、この出来事をきっかけに、「営業2課」として少しずつ道外推進を進めていくことになります。

道外に出たからこそ得たもの
塚田博信が営業推進する中で感じたこと。それは「セイカンやコンテナの認知度の低さ」「販促資料やホームページなど、会社を紹介するツールの不足」でした。十勝では名が知られ、北海道ではコンテナが知られるようになっていましたが、道外に出れば、何の会社でどんなことを目指し、何をしている会社か、を一から説明しなければなりません。
当時形としてはあった会社案内やホームページですが「会社のブランディング」の必要性を実感。ブランド構築のチャンスと捉えます。
また、コンテナに関しても、営業環境の違いに合わせた新機種の開発、玉ねぎやニンニクなど、北海道とは異なる環境への鉄コンテナを使った乾燥調整のこと、当初から仮説として立てていた農地の拡大や大規模化は、確実に現実のものになりつつあることなど、コンテナ事業をさらに深化させる要素を手にしたことも大きな収穫でした。
こうした経験から、今はまだ認知度の低いコンテナを敢えてセイカンのアイコンとすることで、会社と商品の両方の側面からブランディングできるチャンスと捉え、「コンテナメーカー」として、コンテナ市場を牽引するポジションを確立していく道を選ぶこととなります。
これまで販売していた「コンテナ」を「鉄コンテナ」と自ら呼称を定め、ブランディングを開始。「はじめまして、鉄コンテナです。」というキャッチコピーを掲げ、コンテナを擬人化した全国広告を展開。HPや会社概要もメーカーとしての表現に刷新し、トップブランドを目指す第一歩を踏み出しました。

未来をつくるのは、人の力。まずは仮設を立て、とにかく行動する。行動しながら考え、また動く。今に続く歩みは、厳しい状況にも決して悲観せずに未来を信じて行動し続けた塚田博信の姿がありました。

このエピソードのDNA
- 未来を読み、自ら動く
- 考えすぎず、まず行動する。行動しながら考える
- 結果が出るまでやめない
- 現場から学び、会社の未来をつくる