海外(台湾)から工具輸入開始:円高を味方に、農業コストを下げる挑戦
Business
経済の追い風を、農家のために活かしたい
1985年、プラザ合意により急激な円高が進行しました。こうした世界経済の流れを逃すことなく、「円高差益を農家に還元するチャンス」と捉えたのが、塚田英樹です。農家のコストを少しでも下げて負担を軽減したい。そんな思いから、セイカンとして初めての本格的な海外取引が始まりました。農家の課題解決に必要とあらば、国内のみならず海外にも視野を広げ、世の中にないものであれば、自社で企画設計し製造を委託してでも課題解決に尽力する。工具の輸入はセイカンの精神を体現する取り組みのひとつでした。結果として、海外との貿易や製造委託のノウハウを蓄積するまたとない機会、その後のコンテナ事業へとつながっていきます。
テキスト:外山暁子
事業名
台湾から工具輸入開始
事業内容
農業資材を取り扱うようになり、さらに農業用工具類の取り扱いを進める中、課題は農家の機械工具にかかる資材費の増大。この課題を解決すべく、当時円高が進行していたこともあり、円高差益還元による機械工具費の削減を狙って台湾へと進出。言葉も通じない中、塚田英樹と高橋文男は自分の「目」だけを頼りに様々な工具の輸入を始めました。
事業の経緯
1968年、畑地帯総合土地改良事業を契機に、十勝農業は急速に機械化が進んでいきます。セイカンも工具をはじめとする営農資材の提供で機械化を支援してきました。しかし、農家は機械の大型化が進み、それだけでも多額の負担があり、資材費も増えていることから経営面での厳しさはさらに増している状況でした。塚田はなるべく機械のメンテナンスを農家自身がすることで、維持コストを下げられるのではないか。メンテナンスに使う工具類も海外から輸入すれば、金銭面での負担が少なるなるのでは、と考え、海外からの輸入を検討。1985年、プラザ合意により急激な円高が進行したタイミングで、台湾進出を決意。台湾を選んだのは、「日本市場向けの製品づくりに慣れていたから」。とはいえ、当時は英語も中国語も話せず、輸入のノウハウもほぼゼロ。高橋と共に台湾に渡り、様々な展示会などを周りました。
「現場で使えそうなものを判断してくれ。これが良いと思うけど、どうだ?」
「それは良さそうですね」
カタログも信用できない時代、頼れるのは「現物を見て判断する」感覚だけでした。通訳を一人だけ同行し、塚田と高橋は台湾の工場を何軒も回り、製品の品質や使い勝手を直に確認していきました。
こうして仕入れたのは、コンプレッサー・ボール盤・プレス・ジャッキなど、多用途に使える工具や機械たち。直接販売するものもあれば、農業用に改良をしてから販売するものもありました。
「農家に安く手渡したい」という目的は達成されたものの、日本語の説明書などは準備できませんでした。その分、使い方の説明やトラブルへの対処などはその都度親身になって行っていました。

セイカンらしさ
農家の声に応える。セイカンの”DNA”は、この台湾訪問からさらに深まりました。よりコストを下げるためにはどうしたら良いのか、そのままで使えない道具は、現場に合わせてカスタマイズすること。徹底した「農家目線」と「創意工夫」の信念は、たったひとつの小さな工具においても同じこと。
さらに、「売って終わり」ではなく、納品後の調整や修理を徹底。この地道な姿勢が少しずつ認められ、「セイカン」の信頼を築いていきます。
現在とのつながり
当時の海外製品は「安かろう、悪かろう」と言われがちでした。実際、初期の納品時には、組み立てられない・歪みがある・動かないといったトラブルもありました。しかし、そうしたトラブルを乗り越えての海外進出は、これまでの常識を常に覆していく、現在のセイカンのあり方にもつながっています。

このエピソードのDNA
- 農家の声を聞き、必要なものをカタチにして届ける
- 農家のために行動する。そのためなら、たとえ海外でも足を運ぶ。