塚田 英樹
会長 People
「目の前の困っている人を助ける」 その想いを胸に走り続け、セイカンの礎を築いた塚田英樹
セイカンの前身である北海道ドラム工業。創業者は塚田五郎氏だが、現在につながる「セイカン」の礎を築いたのは塚田英樹氏だった。 右も左も分からない十勝平野に立ち、その大地に夢を見、ひたすら農業の課題に向き合い続けた日々。それはそのまま、セイカンの挑戦の歴史、そのものである。
テキスト:外山暁子
写真:﨑一馬
編集:吉田拓実
春耕の十勝野に見た夢〜農業との出会い〜
畑に立ち昇る湯気があたたかく見えた
私は道南の森町で生まれてね、小樽で育ったから、どちらも海の街でしょ。春先に飛行機で初めて帯広空港に降り立った時にね、飛行機の窓から下を見たら、畑から湯気が出ているのが見えたんだわ。それがとってもあったかく感じてね…。
この場所で何か功績を残すようなことをやりたいと思ったんですよ。
やっぱり十勝といえば農業でしょ。そしてね、農家の人たちってみんな基本的に優しいんだわ。海の人たちはね、気性が荒いというか、厳しい人もいてね。それが農家の人たちは、農業のことも営業のことも何も知らない私が行っても、「お前は金ないんだから」って、昼飯はほとんど農家の人がご馳走してくれたの。家に上げてくれてね。もちろん、仕事には厳しいところもあるけどね、人柄があたたかいなあって思いました。十勝に来て、ここで商売ができて、本当に良かったと思ってますよ。

「農業に貢献できる仕事がしたい」それがセイカンの根源
農業っていうのはなくなることはないでしょ。食べるものを作っている人がいなくなったらみんな困っちゃうよ。
十勝という場所は農業にとって、とても恵まれた土地。ここで農家に貢献できる仕事をやっていけば、安定した会社になっていけると思ったんだよね。自分はそのための土台作りをずっとしてきた。
私は農業のことは何も分からず始めた。それでも、農家を回っていると、いろんな事情が見えてくるようになってね。「ここが困ってる」「ここがこうだったらいいのに」「こういうものがあったら便利なんだよな」って。
だから今まで開発したり販売してきた商品はね、ある意味で農家の人が開発した商品なんですよ。俺にはそんな開発能力なんかないから。農家とか農協とかそういうところから情報をもらって、それを形にしてくれたのが社員です。定期的に農家の人が会社に来てくれて、どういう品物が欲しいかなどを話し合う会議もやっていましたから。
私は一緒に考えるよ。でも、どうやったらいいか分からないでしょ。そしたら社員がね、いろいろ考えてくれて試行錯誤して。開発してきた商品については、ほとんど社員が作ってくれたものですよ。だから、農家と社員のおかげなんです。

塚田家のアイデンティティー
自分で商売することを考えろ
親父(塚田五郎氏)は男ばかり6人兄弟の5番目で道南の森町で生まれました。そこで網元の娘だったお袋(塚田セツ)と結婚して家業を手伝っていた。お袋の家は、船を持っていて、獲ってきた水産物を市場に出したり加工したりっていう、今でいう水産加工業を営んでました。
あるとき、親父が魚を乗せて運ぶはずの電車に乗り損ねちゃってね、そのままだと魚が腐っちゃうでしょ。そしたら親父が魚をね、全部捨てちゃって。そのことがあって、向こうの親と縁が切れちゃって小樽に行ったと聞いています。

小樽では叔父の塚田四郎さんがすでに小樽容器株式会社という、ドラム缶洗浄業をやっていてね。しばらくそこで働いた後に、親父も同業となるドラム缶の洗浄を行う北海道ドラム工業を立ち上げることにしたんです。今みたいにタンクローリー車がないからね、油は全部ドラム缶に入れて運んでたんですよ。そうすると、何カ月か使ううちに、いろんな不純物が入って使えなくなっちゃう。親父が作ったのはそのドラム缶を洗浄する会社でした。
私は最初キャタピラー三菱(現日本キャタピラー)に勤めていましたが、サラリーマンは向いてなくてね。親父もビジネスやってたからね。塚田家は起業家で成功した人が多いの。親父には「自分で商売することを考えろ」って言われてましたよ。それもあって1968年、小樽容器に入って釧路の工場で仕事を覚えてたの。その翌年に北海道ドラム工業の帯広工場を立ち上げるから所長をやってくれって親父に言われて帯広に来ました。
当時は株式会社原田という会社が共同石油のドラム缶を扱っていた代理店としてこの辺りの仕事を一手に引き受けてたから、そこで扱っているドラム缶を洗浄する仕事が欲しくてとにかくそこに通ってね。もちろん、株式会社原田は別の会社とすでに取引があった。それでも社長の自宅にまで通い詰めて、なんとかうちで洗浄してもらえるように頼んでいました。
1971年に北海道セイカン工業に名前を変えてね。名前の由来は入れものを洗うからセイカン(清掃➕ドラム缶)。ところがすぐにオイルショックが起きてね(第一次は1973年、第二次は1979~1980年)。タンクローリーで輸送するようになったから燃料油用のドラム缶は使われなくなった。それでドラム缶洗浄工場はね、いきなりだよ、いきなりもう仕事がなくなっちゃって。2年でゼロだよ。

縁をつなぎ農業の世界へ。課題解決が農業商品の開発・設計につながる
農家・農協との付き合いはホームタンクの洗浄から
もちろんうちも大変でしたよ。辞めた社員もいたし。でも、4、5人まだ残ってたからね。会社を畳むわけにはいかないでしょ。でもね、そのうちにやはりホームタンクも洗浄する必要があるってことが分かってきた。洗浄の技術はあったから、それならホームタンクのサイズに合わせて洗浄車を作ろうと。古いトラックを改造して、いろいろな部品を組み合わせて、社員みんなでね。これ1台作るのにも結構お金がかかるから。その資金集めも大変でしたよ。
農家の免税軽油に関しては、ほとんどホクレンで契約してたから、ホームタンク洗浄の提案をホクレンにしに行って、最初は相手にしてもらえなかったけれどもね。そのうちこれは必要だってわかってもらえて、ホクレン経由で農家との付き合いが増えていったの。
農家のホームタンクは一般家庭用と違ってサイズが大きい。普通の住宅は490リットルだけど、農家は1トン。古い油を使ったらトラクターが動かなくなったって話も聞いた。だから需要があって、ホームタンク洗浄車を使った洗浄は、もう十勝管内はほとんど独占しました。まねして作ったところはあるけど、十勝はうちだけ。ここから農家、農協との付き合いが濃くなってきたね。

アフターサービス、販売、やがて商品開発へと課題解決と共に事業領域を広げて
ホームタンクの洗浄だけでは数人規模の事業にしかならないので、他に何かできる仕事はないかと探していました。そんなとき、新聞を読んでたらね、石油ストーブは定期的に分解整備しなきゃダメだって書いてあったの。それで、うちなら工場があるから修理の仕事ならできるかな、と思って。石油燃焼機器のサービスに走った。メーカーのサービス指定店になれば、信用も得られるし仕事が入ってくるだろうと思ってね。アフターサービスを請け負う、ってメーカーに直接交渉に行って。最初に始まったサンデンは十勝に石油ストーブが入っていたけど、こっちには営業所がなかったの、だからうちがそこをやることになってね。そこからはサンデン、サンポットのアフターサービスは全部引き受けた。
アフターサービスで農家を回ってボイラーやストーブの修理をすることが多くなってね。特に酪農家は、ボイラーが壊れると牛が死んじゃうから、メンテナンスに困ってたんですよ。ひどいときには夜中の1時までかかって、牛舎のボイラーを直したこともある。修理だけじゃなく、新古品や新品を販売することも始めてね。そうすると、市場があるのはやっぱり農協だと思った。組合員さんがたくさんいるからね。だからまずは農協に行って扱ってくれるように頼む。向こうとしても、専門の知識を持っている人が販売するほうがいいから代理窓口という形でね。

「セイカンなら応えてくれる」農業の課題に向き合い続けて得た信頼
ホームタンクの洗浄や暖房機器のサービスで農家と付き合ううちにね、生産現場ではいろいろな事情や課題があることを感じて、段々とそれに応えるようになっていった。営農に必要な資材もうちで調達して、農協に窓口になってもらえばいいんじゃないかって。農家が生産コストを少しでも下げるためにはどうしたら良いか、いつも考えていましたね。農協で扱うと言っても、その代金を支払うのは全部組合員である農家なんだからね。そこを忘れちゃだめだっていうのは今も常に思ってますね。
そうした営農資材の販売を始めると、「こういうのはないかな?」「こんな道具があると便利なんだけど…」って相談される機会も増えてきてね。「セイカンなら応えてくれる」という信頼を徐々に積み重ねていったんだと思う。
そのころ、農家を回っていると、農薬を散布するときに農薬を吸っちゃって病気になって入院したり、亡くなる人も出てきたのが気になっていた。当時はトラクターにキャビンもないし農薬を散布するときにマスクをしているんだけど、自分の吸引力だけで息しながら作業するのは難しかったようで、ほとんどの農家が農薬マスクを付けないで散布していた。作業の度に付けたり外したりするのも大変でしょ。仕事の手を止めなくてもいいように、自動的に吸引できるやつがいいって相談されて。
需要や市場があるから?そうじゃないです。農業者が農薬で病気になり、死んでいるんだよ。それはどうにかしなければならないと考えた。シゲマツというメーカーが軍隊にマスクを供給していたのは知っていたので、東京に出向いて農薬マスクを一緒に開発して欲しいと交渉した。向こうはマスクに関してはプロだけど、農業に関しては知らないことも多いから、そこは何度も通って話し合って試作してね。フィルターを活性炭にしたり、自動的に動くモーターも要望して。十勝農業試験場とも一緒に試験して、1年くらいかけて農薬専用のマスクとして商品化できたんです。シガーソケットで充電するものから、バッテリーを積んでいるものまでA,B,Cと価格が3段階あったんだけど、国からの補助金が全額出るということもあって、あっという間に全道に広がった。それだけ求められていたんだと実感した商品でもありましたね。


コストを下げるために、工具類は台湾に仕入れに行くようにもなった。その頃は円高だったっていうのもあってね。輸入したのはコンプレッサーやボール盤なんかの整備工具。農家はたくさんの大型機械を抱えて、それだけでもすごいお金がかかっているから、なるべく修理は自分でやれば、新しく買い換えなくて済むこともあるでしょ。そうやって直して使えば、生産コストをなるべく抑えられると考えてね。仕入れたものを売ったり、農業用に開発したり、という基盤が徐々にできてきた。
農家は作っている農産物や設備もそれぞれ違ったり、やり方も一件一件違う。だけど、共通の課題があったり、誰かが「これいいぞ」ってなったら、もう一気に広がる。それが商品開発の面白さだと思います。人が困っていることをどうやって解決していくか。私はそれに専念してきましたからね。やっぱりそれで感謝されたらうれしいよ。自分たちが作ったものが役に立ったって言われるのがやりがい感じるしね。自分で営業していても、ずっと同じものを売るよりは、新しい商材のほうがいろいろ提案もできるし面白みがあるよね。「セイカンさんはいつも新しいものを持ってきてくれる」という印象もつけられるしね。
惚れ込んだ鉄コンテナ、1人で営業を始める
社運をかけたコンテナ輸入
営農資材は順調でしたが、細々したものを売っていても、それ以上にはならないと考えるようになってね。資材は一度買ったら、すぐに次を買うようなものでもないしね。だから、ある程度数も見込めて、売上も大きくなるようなものを考えてた。
そのころ、芽室農協が本州の会社から鉄コンテナを買ったんですよ。それがあまり状態の良いものではなくて、それに本州だとどうしてもアフターの対応が遅くなる。困ってたんですよ。「どうにかしてくれないか?(セイカンで扱えないか)」と相談されてね。それが鉄コンテナを考え始めたきっかけ。芽室農協と幕別農協は、一番最初にセイカンのコンテナを入れてくれた農協。農協側としてもリスクがあったと思うので、すごいチャレンジだったと思いますよ。
価格のことで考えると海外で生産するのがいい。当時は輸入コンテナを扱っている会社は1社くらいしかなかった。それですぐに中国の展示会に向かったの。そのときの通訳さんが女の人でね。その人に頼んで、展示会には出ないで個別にあちこちのコンテナメーカーに直談判してきました。突然行ってそれだからね、めちゃくちゃでしょ。2人で南部の広州から北部の大連までずいぶん走ったね。その人がのちにセイカンの中国支店長になった李さんなんだけど、ここで知り合ったのが縁でしたね。
それで3千基くらいコンテナを集めて、船1隻チャーターして送ってもらったんだけどね、台風に遭っちゃって、ちゃんと固定もしていなかったみたいで、十勝港に着いた船を迎えに行ったんだけど、崩れたり、壊れたりしていて…、もう、その時は「会社をつぶした」と思うほど、絶望的な光景でしたね。


こっちは、このコンテナに命をかけていこうと思ってたんだよ。それがそんな状況でしょう。とにかく社員総出で行って、みんなで運びだして状況を確認して。使えるもの、ちょっと修理をすれば使えるものなど仕分けして、直せるものはすぐに工場で直す。とにかく途方にくれる作業を、みんなよく弱音を吐かないでやってくれた。
うちを信頼して注文してくれた農協が収穫物を入れるためにすぐ使うのに、修理をしていたら収穫時期に間に合わない。その賠償責任も追うつもりで、農協に出向いて説明に行った。賠償するって言っても、当時の会社にそんな体力なかったから、そうなったらもう終わりだよね。
会社を潰す覚悟で状況を説明したら、役員の方がね「何言ってんの塚田さん。修理したものから順次持ってきてくれればいいから」と言ってくれたんだよ。コンテナがない間はフレコンパック(農業現場で使う大型の袋)などを準備して対応してくれた。
思えばこちらもコンテナに関して素人同然だったから、材質とか強度とかよく分かってなかったんだよね。構造計算なんてしたことないでしょ。だから、その後はとにかく補強したり、何社かと取引して、いろんなコンテナを見て使っていきながら、その都度改良を重ねて、現在の完成形になっているの。
本当に、あの光景はね、今でもずっと忘れられないですよ。会社が存続できたのも「この会社を育てなければ」と言って、実際に行動してくれたお客様のおかげだと思ってる。こうしてお客様に育ててもらって今があるんだよね。
十勝沖地震にも耐えたことで徐々に信頼を獲得
2003年、十勝沖地震が起きて、十勝は広い範囲で震度6弱を記録しました。特に海岸沿いの町は結構被害が出てね。豊頃農協のコンテナ倉庫もぐちゃぐちゃの状態になった。そんななか、他社のコンテナの多くは崩れてしまっていたけど、うちのはその前に補強を入れていたことが功を奏してね、崩れていなかった。それで、こうすれば強いんだっていうのが分かってさらに改良を重ねるようになった。
そのことは農協さんにセイカンのコンテナの品質を知ってもらえる大きな機会にもなった。最初は、中国製のものは「安かろう、悪かろう」と言われて、誰も相手にしてくれなかったからね。こちらは少しでも安くて、品質もちゃんとしていることを証明しないとならない。トラックやワゴンにコンテナを積んで、現地で組み立てて見てもらっていた。さらに強度試験資料、メッキ被膜資料、納品実績資料など、とにかく実績を証明できる資料は常にカバンいっぱいに詰めてね。そういうことをしてもなお「一基数千円安くなければ買わない」と言われていました。
「全量切り替える」となると、ものすごい数ですから。他社より1基5,000円安かったら、トータルでものすごい金額でしょう。それは全部組合員である農家が負担してるんだからね。そこを忘れちゃダメだよ。それを考えたら安くて良いものが合ったらそのほうがいいと思って、価格の面と品質も良いっていうことをひたすら伝え続けてきましたね。
農協からは、のちに「農家コストの軽減に多大な貢献をしてくれた」「一緒に十勝農業を支えてくれた」と感謝の言葉をいただきました。本当に、私も必死でやってきましたが、皆さんに叱咤激励されながら少しずつ認めてもらえて、この十勝でやって来れたんだと思っています。


社員からは反対の声。それでも地道に1人で売り続けた
社員はコンテナっていうのは、最初はどんなんかも分からないし、最初に着いた船がそんな状況でしょう。これは…、とても売れないってみんなに反対されましたね。それでも、私はこれ(鉄コンテナ)に惚れてましたから。それまで、農家も農協も重いコンテナを使って、すごい数を組み立ててね。それを見てたから、絶対にこれは軽くして使い安くすれば楽になると思ってた。
諦めるってことを知らないからね。これだと思ったらやりきるまでやる。だから、1人でも農協に営業に回ってましたよ。
このコンテナはやっぱり大きく農業に貢献したと思っています。コンテナを使えば、収穫機からそのまま作物を入れて、トラックで輸送できるしね。いろんな問題を解決できたと思ってますよ。十勝は土地が大きいからね。需要があるとは思ったけど、本州での展開はあまり考えてなかった。それをやったのは副社長(塚田博信氏)だからね。今全国でもセイカンはコンテナ屋さんだと思われるようになりましたからね。大したもんだね。

セイカンのミッション
農家のために尽くす、そこはブレない軸
私はとにかく、十勝の農業に貢献したい、役に立ちたい、という一心でやってきました。人の役に立てる仕事ならね、なくなることはないよ。「セイカンがないと困る」そう言ってもらえるうちは、会社は安泰だと思う。それは商品のことだけではなくて、「課題を解決する」「困りごとに応える」「新しいことにチャレンジする」っていう姿勢だと思うんだよね。その気持ちが大切。それさえあれば大丈夫。
私は営業経験もなかったし、農業の経験も知識もなかった。それでもやってこれたのは、「目の前の困っている人をどうやって助けるか」ということに専念してきただけ。ベストな方法を探して、見つけて、実行して。それだけを必死にやってきた。形にしてくれたのは社員なんだけど、その気持ちの部分はね、誠意を持ってやってきたと思ってる。私の机にはね、クレーム品とかクレームが発生した問題や履歴、全部持ってますからね。より良くするためには改良が必要。売って終わりってことはない。だからクレームは大事な機会です。

社員には夢を持っていて欲しい
社員がいたからね、ここまで会社をやってこれた。本当に社員には感謝しかないんだよ。いろいろ無茶を言ったり、怒鳴ったこともたくさんありますし。今はそんなことやっちゃダメだよね。
社員が苦労したと思う。それでもさ、非常識な怒り方したときはちゃんと後から謝ったりしたよ。それは自分でも分かってるからさ。意見がぶつかる場面もたくさんあって、それでもよくみんなやってくれたよね。本当に社員には感謝です。
なんだかんだ言って、大切なのは人とのつながり。それを大事にしていかないと。そのおかげで今があると思ってる。社内でもお客さんに対しても。社員が長く勤められる会社にしていきたいよね。成果が継続するような会社じゃないと、社員も夢が持てないでしょ。夢がないとダメだよ。
セイカンは「お客さんに貢献する」「農業に貢献する」、そういう会社だと社員が認識して一緒に頑張っていければ良い方向に行くと思っています。農業も変わっていくだろうし、環境も変わっていく。これは当たり前だからね。その都度、セイカンができることを考え続ける。その姿勢をお客さんが評価してくれれば、これからも「なくてはならない会社」になっていけると思いますよ。


このエピソードのDNA
- 動機は「目の前の困っている人を助ける」シンプルで力強い精神
- ゼロか100か。やると決めたら妥協せずに徹底的にやり切る
- ないものは作る、使いやすく改良する。直感を信じて探究を惜しまない
- 常に新しい視点で情報を追い求め、お客様に価値を提供し続ける
- 縁を活かす。恩を忘れない。対会社としてはもちろん、対個人としても