塚田 博信
代表取締役副社長 People
家業を企業に導いてきたマネジメントリーダー
「会長が築いた経営スタイルは、個性的で、強いリーダーシップに裏打ちされたもの。社長はその理念や空気感を社内に守り伝える存在だと思います。私はそれを言語化、組織化し、新たなビジネスの構想や立ち上げにも取り組んできたつもりです」。"継ぐ"ことと"創り生み出すこと"。それぞれの立場や役割を尊重しながらセイカンと共に歩んできた。 塚田博信は、彼ならではの視点から見える課題や会社・商品の見えざる価値にひとつひとつ向き合いながら「セイカン」の屋台骨を静かに積み上げてきた。日々の小さな疑問を、仕組みへ、商品へ、理念へと、常に「視点の転換」を行ってきたその道は「まだ志半ば」だと言う。「この先は次世代にバトンをつないでいきたい」とも。
テキスト:外山暁子
写真:崎一馬
お客様に寄り添った仕事がしたい
銀行員からの転職
29歳まで銀行員をやっていました。30歳になって、仕事の仕方やこれからのことを考えた時に「大企業で評価や出世を気にして仕事をするよりも、お客様と真っ直ぐ向き合って仕事をしたい」と思って父に相談したら、帯広熱器センターに入社させてくれました。
帯広熱器センターは暖房器の修理をやっている会社で、そのマネジメントをして欲しいということでした。
銀行では、判断の軸として法律があって「こういう場合はこうする」と言う答えが明確に決まっているから迷うことがないんです。でも、当時の会社には何もルールがありませんでした。私はこの業界の知識もないし、マネジメントの経験もなかった。経験を積んでいけばそのうちに身についていくとも思いましたが、それには時間がかかる。そこまで時間をかけていられないと思っていたので、経験不足を補うために、経営スキルや他社の成功・失敗の記録、経営哲学や古典など幅広い書籍をとにかくたくさん読みましたね。「学び」で経験を補って自分なりの判断軸を築こうとしていた時期でした。
会長はあの通りの性格なので、朝礼で私のことをみんなに紹介したら「じゃあ、いいな?」って、そのまま置き去りです。だから、自分の仕事は自分で作っていくしかなかった。
ガソリンスタンドや賃貸物件の退去後のストーブ整備の営業をしたり、過去のデータを参考に新規入れ替えを促すDMを作って郵送したり、ストーブの販売をしたり…。
除雪機の展示会がある、と言われても、除雪機とは何か、展示会ってどんなことをするのかもわからない。ただ、人は集めなきゃいけないことはわかっている。新聞広告を出すお金はないから、チラシを作って手配りで個人宅に投函して周っていました。
「整備や修理を頼まれる」ということは「壊れた時だけ注文がある」というシンプルなビジネス。市場規模自体を伸ばすことは難しいなと感じていました。
業務マニュアルを作るためにセイカンへ
手探りの販促でしたが、展示会の成績もまずまずで、ボイラーの入替販売も伸びていました。会長がそうした仕事ぶりを見ていて、段々セイカンの仕事を頼まれるようになっていきます。最初は「業務マニュアルを作ってくれ」ということだったと思います。セイカンのほうも社内文書的なものがない中でやっていましたからね。
マニュアルを作るなら、ある程度会社には通わないといけないし、通っている間に会議に出るようになったりして、徐々にセイカンに関わるようになっていきました。

当時は帯広支店の統括マネージャーという立場で現場のマネジメントも任されていましたが、仕組みがない中で走り続けている状態。修理内容、金額、時間管理、クレーム対応など、お客様にご迷惑をかけることが多く、休みが明けて月曜日に会社に行くと、対応しなければならない案件が机に溜まっている状態。社員は遅くまで頑張って仕事をしてくれていましたが、そのような状態なので定着率も悪く、私自身も、コンテナの営業と現場のマネジメントで毎日がジェットコースター状態。
このままではダメだ!何か変えなければ、と思っていました。
これまでの概念を覆す取り組み
JA以外の販路や道外への販路を模索して
私がセイカンに関わるようになった2000年代前半は、ちょうど鉄コンテナの販売を始めて数年、という時期でした。当時は農協との取引に注力していたこともあり、新たなチャネルへの動きはこれからという段階でした。
私は、農協以外の民間の会社にコンテナが積まれているのを見て、”民間企業でコンテナを使っている企業にも、営業活動ができるのではないか”と思ったんです。
会長にその話をしたら、最初は理解してもらえませんでしたが、農協以外の営業チームはなかったので、結果私一人で始めることになりました。
ですが、JA以外に広げると言っても手がかりがなく、電話帳をもとに業種をリストアップして、道内を足で回って見込みがありそうな場所を実際に見て判断するような活動をしていました。初年度は新規が10件程度、50基とか100基の積み重ねで、3000基程度。そんな規模からのスタートでした。

おかげ様で、徐々に全道エリアの農協や商系のお客様が増えていきました。商系のお客様が増えていって、数珠繋ぎでつながっていくんです。
それでも、まだまだ組織的に動いているとは言えない状況でした。売上は上がっていても、コンテナは役員が営業しており、営業面でも管理面でも役員の負担が増えていました。役員の業務を渡すのにも人材育成が必要だったり、組織化も、仕組み化にも取り組めていませんでした。
会長や社長とも何度も相談しました。本来であれば自分の業務を下ろして組織化のほうへ取り組めたら良かったんですが、組織的な経営をするには人材を増やすなど、しなければならないことがたくさんあり、その資金や体力が当時はなかった。であれば、むしろ自分のミッションを増やして、ビジネスを強くする以外に解決法がないと切り替えたんです。利益を作る以外にないんだなと。
それが北海道外に出ていく理由のひとつでした。
九州を皮切りに、全国各地へ奔走
さあ、本州に出て行くぞと思って調べたら、当時の私の知見では北海道と同じくらい馬鈴薯を作っているのが九州で、それならコンテナを使っているはずだという認識で会長にも説明して動きましたが、結果は、全滅でした。
九州では思うような結果につながりませんでしたが、その後も道外への営業活動は1人で続けていて、青森県、茨城県、埼玉県、愛知県、兵庫県、香川県、岐阜県などの産地や加工会社の推進を行っていました。
全国地図を会議室の壁に貼って、取引できた地域にシールを貼っていました。初めて道外でセイカンのコンテナを見たときは本当に誇らしかったですね。
青森県の農協には7年通って、やっと実績ができました。ひとつの実績ができると、次につながっていく、それは道外でも同じです。自分がやってきたことが少しずつ結果に結びついていくようになりました。
参考記事:会社の環境を変えるためには、新市場に出ていくしかない~道外販路開拓開始~

農業者同士をつなげる仕組みをつくりたくて
ビジネスを強くする、と決めていくつか新事業を考えていた中で、農家同士が情報を共有できる「農業従事者専用SNS」を構想していました。農業は親から継ぐ人が多いなか、新規就農する方が孤立して辞めてしまうという現状が少なからずあって、それをなんとかしたいという思いがあってのことです。技術的な情報の共有や、資材の購入など、気軽に意見を交換したり尋ねられるようなプラットフォームがあれば良いのではないかと思っていたんです。
2009年頃のことなので、まだSNSは普及していませんでした。事業内容がセイカンと違っていたので別会社として立ち上げたのが、株式会社レクモです。
SNSとECを組み合わせたソーシャルコマースを目指して始めて、3000名以上の会員を集められたのですが、当時はまだSNSでの広告リテラシーが低く、収益化が難しかったため、最終的にはECだけに集中する形になりました。
最初はなかなか売れず年商数万円からスタートしましたが、2024年・2025年には楽天市場のショップの全国7エリアの中で、各エリアで特に実績を残したショップが選ばれる『楽天ショップ・オブ・ジエリア』を受賞することができました。
レクモの試行錯誤を通じて「新しい業界の言語や知識に触れると世界が広がる」ことを体感できたことは大きかったです。事業としてはSNS・メディア構想は頓挫しましたが、デザインやWebマーケティング、ブランディングの知見を得ることができましたし、それをセイカンに還元することができたことが大きかったですね。
鉄の箱を物流の神経へ
出荷の”その先”に気づいて
2009年、農協以外の商系や道外を推進していく中で、野菜の流通について考える機会が増えてきたんですよね。業界大手の馬鈴薯の加工会社と初めて取引ができたことで、こういうふうな加工会社が野菜を買うんだということが理解ができてきて。農協でも集荷会社とのダブルネームの鉄コンテナの依頼があったりして、徐々に加工会社側、需要側、つまり出荷したその先のコンテナの注文をもらうことが、私個人的には増えてきました。
なので、最初は出荷する側を相手に営業をしていたわけですが、その出荷されるほうもお客さんになりうるのかなと、個人的に出荷先を聞いてそちらにも営業をかける、みたいなことを一人で始めていました。
産地に行って産地の出荷先を聞いて、出荷先に営業をかける。
これをやっていた時に、コンテナを「物流容器」と捉えると分かりやすいのかなと思いました。
これまでやっていたような、来年予算がいくらあって、何基買ってくれるか、という営業ではなくて、野菜の「出荷先」を確認してほしいということを、営業チームには話しました。
最初は答えてくれないことも多いです。でも、こちらが「関西方面でカボチャなら○○ですか?」と話すと、なんでわかるの?って、ビジネスの話にできる。
コンテナは絶対にこの方法だ! と思いました。野菜の流通に乗らなければ、今以上の事業規模にはならないと。
営業のみんなにやってほしくて、「物流容器」と言語化して、黒板に点じゃなくて線って書いて、線に売るんだ。点に売るんじゃないんだよ、と。
線に売るってことは、出荷元でも出荷先でもいいという話をしていましたね。
当時はまだ「物」を売っているだけ。理解してもらうまでは繰り返し伝えるしかない状況でした。
みんなにとってそれがどれだけ刺さって効果を得たのかは、ちょっと分からないですが、レンタル事業へとつながっていく流れにはなったと思います。
単純な物売りからお客さんのビジネスに寄り添うソリューション営業へ転換した、という意味では、とても重要な気づきでした。
キーワードを「鉄コンテナ」に
コンテナをはじめたときは、競合先に「輸入品、粗悪品」と揶揄されて「国産VS輸入品」という競争ルールでの戦いを強いられていました。例え強度が同じであっても輸入品というだけでイコール粗悪品という位置づけにされてしまうので、安くしないと買ってもらえず、苦労していました。
でも納入実績は増えていたので、競合よりも多い納入実績をアピールして、その競争ルールを変えたいと思っていました。
そこで、まだまだ認知度のなかった「コンテナ」を敢えてキーアイコンとして利用して、コンテナトップメーカーとしてのブランディングを狙うことにしました。
コンテナを「鉄コンテナ」と命名し、セイカンのホームページもリニューアル。もともと資材販売のサイトはあったのですが、道外に出る場合は鉄コンテナメーカーとして出ていくので、それ用のサイトの必要性があると考えていました。
リニューアルしたホームページでは、週に1回はコンテナの基礎知識や納入実績についてのブログ記事を書くことを何年か続けました。セイカンが鉄コンテナのトップシェアであることを認知してもらうことや、どこで製造した商品か?ではなく、どこから買うのか?という販売競争のルールを変えることにも寄与できたのではと思っています。以降も、セイカン=鉄コンテナとしてのブランディングを進めていくことになります。

理念とビジョンの再定義
会社の理念や強みが分からなかった
それまで会長がほぼ一人でつくってきた会社で、何かを説明するとか言語化するという文化はありませんでした。でも、会長も年齢を重ねていきますし、会社の規模も大きくなっていく中で、さらに成長・発展させていくためには、カリスマ経営から組織経営に変化しなくてはならないと考えていました。
会社として、ホームセンターの進出や競合との激しい競争、ネット通販が台頭している環境で、どう勝ち抜いていくかを悩んでいる時期とも重なっていました。
資材販売、コンテナ販売、修理。この3つが事業の柱でしたが、それぞれ商品やサービス単位で考えると、いくらでも替わりはあるので、どのように差別化すべきなのか、セイカンの強みは何なのか。ずっと答えを出せずにいたんです。
会長はずっと「農業のため」「満足感の提供」と話してくれていて、2005年には「北海道No.1の農機具メーカー」というビジョンを作ってはくれましたが、それは会長の本当の思いを言語化できたものではなかったと思うんですよね。だから、会社にもしっくり馴染まなかったのかなと。
それまでも「満足感をお届けします」という理念はありましたが、今の組織に合う言葉を探して、会長とずっと議論を重ねてきました。セイカンは何を目指していくのか? 何を実現したいのか?実現したい世界は何か?それを言語化して、みんなに伝える時期が来ていると。
そう考えていても、目の前の課題は次々にやってきます。その対策はしつつ、本質的な部分の解決が必要と考えていて、役員会議でも経営理念やビジョンの必要性について何度も提案していました。
会長が考えてきたこと、思ってきたこと、やってきたことを会長に頼らず再現性を作っていくのが自分の仕事と思っていましたから。
会社は創業者の性格や想いに影響されるものです。私は創業者ではないので勝手に理念を考えるわけにはいきません。
会長の協力、会長による言語化、最低でも会長の心の底にある想いの言語化が必要でした。
外部コンサルタントを入れて経営理念を作る取り組みをする中で、はやぶさQやコンテナなどの「新しい価値」を提供することがセイカンの強みなのかなと思って「農業を変える新しい価値を」という理念を私が発案しましたが、そもそも「新しさ」がセイカンの価値なのかがしっくりこず、発表するまでにはいたりませんでした。
会社の強み、理念が分からないということが10年以上続いたと思います。とても苦しい時期でした。
お客様の声で気付かされたセイカンの存在意義
そんなおり、ある新規開拓の際に「御社が買っているコンテナも悪くないが、当社のコンテナもそれと比べて特別良くも悪くもなく、品質は変わらない。だからこそ、どこから買うかが決め手です。セイカンは50年農業のことばかり考えている会社です。今も多くの営業やメンテナンススタッフが農業の現場を走り回り農業を支えています。「どこから買うか」で考えた場合、セイカンから買うべきです」と説得して受注を得ました。
それまでは、コンテナ(商品)の品質証明や価格で交渉をしてきたはずでした。
帰り道で自分は「何を」販売したのだろうか?と考え、「会社の考え方」を販売してきたんだと。
セイカンの強みは会社そのもの。農業を想う会社のスタンスそのものが強みであると気付いたんです。
セイカンは農業の役に立ちたい会社である。「農業に寄り添う」このスタンスが強みであり、差別化と捉えれば、競合はいないんです。
会長がセイカンを作る前に、十勝の畑から立ち上る湯気をみて「ここで農業のために働きたい」と思った。その創業理念そのものだったんだなと思いました。やっとたどり着けたなと。
私たちが売っているもの、評価してもらっている思い、会長が会社を立ち上げた時から変わらない信念は「農業の役に立ちたい」という一点です。
そのスタンスを表現し「大地の期待にこたえたい」という言葉になりました。
セイカン企業理念(2018年作成)
「大地の期待にこたえたい」
ビジョン
「農業を代表する会社を創る」
タグライン(2020年作成)
「農家の喜びに寄り添い、農業に喜びを増やす」
理念って、未来に向かって作りたくなるんですけど、実は過去の文脈にしかないんですよね。
50年続いてきた理由を考えるべきだった。それは、はやぶさQやまぜコンなど、新しい商品を開発し続けることを評価してもらってたんじゃなくて、農業に対する取り組み姿勢、伴走する姿勢を評価していただいたんだろうなと。
その上で「農業を代表する会社を創る」というビジョンを掲げました。農業に関わることであればセイカンだよね、と言ってもらえる会社を目指す。それを社内外に対してハッキリと明文化しました。
「農業」という軸ができたことで、足腰が定まったというか、何をすべきかが明確になった気がしました。事業領域を広げようと、2008年には工業用の市場にも挑戦しましたが、結局うまくいかなかったんですよね。当時はまだ理念が言語化できていなかったので、後から振り返ると理念とは外れていた活動だったので、失敗するのも当然だったなと思います。
農家にとって、ひとつのことを相談してそれが解決したからって、それはたくさんある課題の中でのひとつで。
でも、そのひとつひとつごとに、セイカンに相談できる。そういう会社の性格を会長はつくってきて、それが評価されて現在があるんですよね。その気づき、そして言語化できたことは、私にとっても、とても大きなことでした。
再現性を持って、より強く、変化し続ける
2020年には営業企画室を立ち上げて、私と一緒に業務を担ってくれる社員も増えました。理念の社内外浸透のための施策や全社的課題解決をチームで取り組めるようになってきています。
50周年のイベントやコーポレートサイト・会社案内・販促資料などのリニューアル、インスタグラムや公式LINEなどを活用した広報活動にも徐々に力を入れています。
組織である以上、持続的に成長していかないといけない。会長が考えていたことや、やってきたことは、その当時の環境に適応したもの。環境は変わり続けるので、時代に合わせて私たち自身も変わっていかなくてはならない。
今までやってきたことを、再現性を持って、なおかつもっと力強く成長していくには変化していかなきゃいけない。その役割を担えたらと思っています。
今はありがたいことに若い人が頼もしくやってくれていて。自分が考えてきたこと、やろうとしてきたこと、やってきたスキルも含めて、仕事を通して伝えているつもりです。
自分の腕力でやっていくっていうのはまだできると思うんですけど、いつまでも前に立つっていうのはもう良くないんだろうと思っていて、特に次世代を担う若い人たちが活躍できるように、背中を押してあげられるような存在になれればと思っています。

このエピソードのDNA
- 自分の仕事は自分でつくる
- 疑問に思ったこと、解決したほうが良いと思うことから目を背けない
- 相手から信頼を得るに値する価値を提供する
- 既成概念に捉われない
- 少し俯瞰してみる。物事を広く捉える。