塚田 真敏
代表取締役社長 People
受け継がれるDNAを「宿命」に変えて
「私はずっと泥臭い営業を続けてきた。それだけです」。 そのシンプルな言葉の裏には、30年以上セイカンひと筋に勤めるうち、知らず知らずに染み付いたセイカンDNAが宿る。 「悔しさをバネに」「実直に誠実に」「農家のために動く」。それをごく自然にやり切ること。 そんな自身の歩みをもってして「宿命」と呼んだ。
テキスト:外山暁子
写真:崎一馬
反骨と試練の若手時代
何の知識もなく、農協の出向から始まった仕事人生
正直、学校を卒業後にやりたいことが他になかったからというのが入社した動機です。親からは直接の言葉はないにせよ、継いでほしいという思いはひしひしと感じていたんですが、当時の会社がどんなことをしていて、どんな仕事内容かも知らなかったですし、親がそこまで言うんなら一回入ってみようか、という軽い気持ちでした。
ですが、入ってみたら、なんてきつい会社なんだろうと。若い頃は、何度辞めようと思ったかわかりません。
機械のこと、農業のことを何ひとつ知らないのに、入社後すぐに農協に出向という形になりました。社内でも農協でも、「社長の息子」という目で見られて、、。
孤独でしたね。
同級生たちと比べても給料は安いし、作業つなぎを着て、休みもほとんどなくて。
お客様から注文をもらった簡易トイレを運んでいたら、友人に見られて「トイレ運んでたもんな」とからかわれたこともありました。
仕事内容は、まず、朝農協に出社したら、店の陳列の商品のチェックをします。「ちゃんとチェックしないと、よそに注文するから」と言われていました。営業として入社と言われていましたが、当時はサービスエンジニアですから、修理もできないとならない。何も教えてもらっていないのに、いきなり修理ですよ。修理室というところで、商品の組み立てや修理をしたり。
最初はモンキーレンチがわからなかったんで、「モンキー持ってこい」って言われて、「え?猿ですか?」と言って怒られたこともありました。何も知らないからって、目の前で他の業者に注文を出されるなど、嫌がらせはかなり受けましたね。
もうしょっちゅうバカにされてました。農協の職員にも、農家にも、会社の人にも。
でも、私は反骨精神が強いので、見返してやろうと。
そのためには自分が知識をつけるしかないんですよね。
個人で修理をしてらっしゃる方がいたので、仕事が終わった後は、そこに商品を持ち込んで教えてもらったり、わからないことがあれば、すぐにメーカーや会社へ電話します。
電話が唯一のつながりでしたから。
修理室で作業をしているんですが、出張修理で外にも行かなきゃならないので、テレフォンカードを持たせてもらって、困ったら公衆電話から会社に電話。当時いた鈴木邦子部長が親身になってくれて、商品のことも教えてくれていました。ただ私も若かったですし、細かいことを指摘されていたので当時は苦手だったんですが、今振り返れば、商品のことも、伝票の書き方も、いろいろ教えてくれたのは鈴木部長だったなと思いますね。
会社の車の助手席はカタログで埋まってて、誰も乗れない状況。そうじゃないと虎の巻がないんです。今みたいにネットで検索できないですから、カタログを山積みにして。メーカーに行ったら必ずカタログを全部チェックしていました。
今でも手帳を持つ癖があるんですけど、当時は手帳というよりも電話帳。自分であらゆるところの電話番号をメモしていました。メーカーに直接電話して聞くのが一番早くて確実でしたね。そうしていないと「物売りに来て何も知らない」ってお客さんに怒られるんで。わからないことはすぐ聞く。そういう癖はつきましたね。とにかく数をこなしながら、少しずつ覚えていきました。
札幌支店への転属
当初は「辞めたい」とずっと思ってましたが、3年くらいたつと、農協にも少しずつ慣れて、知っている農家も増え、商品知識もついて、もうちょっとやっていけるかな、と言うタイミングで、会長(当時社長)に「札幌支店ができたからそっちに行け」と言われまして。
少しずつ自信も持ってきていた時期ではあったので、よし札幌でもやってやろう! と思っていましたが、最初はカルチャーショックの連続でしたね。
十勝では「セイカン」というとある程度わかってもらえるようになっていましたが、道央圏ではまず社名が知られていない。だから、展示会も出展規制や出品規制があったんです。まずは出られない。その後出展できることになっても「この商品は○○さんで取り扱っているから出さないで」と言われて、トラックでたくさん商品を持っていっても、あれもダメ、これもダメって言われて、結局出せるものがないんです。懇意にしている業者は倉庫内の温かい場所だけど、私たちは外だったり。とにかく札幌でも悔しい思いをしてきました。
資材についても、十勝でそれなりに売れるようになってきた自信があって札幌に行ったので、こちらでも売れるだろうと思っていたら全然売れなかったんです。本当に売れなくてびっくりして、そんなわけないだろうって思いましたね。
私はどちらかというと押し込み営業というか、それまでは物量をドンと入れる営業をやってたんです。十勝の感覚で、販売力のないところにドカーンと入れたら、返品がすごかった。「塚田さんのことを信用して入れるわ」って言ってもらって、入れたはいいけど売れない、みたいなことがすごくありましたね。
最初はなぜ売れないのか分かりませんでした。「農業」はどこでも同じだと思っていたんですね。当然ですが畑の規模も違うし、栽培する作物、栽培方法も違うわけで、十勝で売れたものが、同じように道央圏で売れない。
ビート育苗用の温風システムにしても、十勝はそれまでジェットヒーターを使っていたけど、そもそもこちらでは「温風をかける」という発想自体がないんです。気温も面積も違うので、パオパオで囲うとか、ハウス内にロウソクを吊るすとか、とにかく十勝とはまったく違った。それに気づいた時は衝撃でしたね。

素直さと正直さを何よりの武器に
道央圏の農協とも信頼関係を築いていく
現在は合併して「道央農協」となっていますが、当時は北広島、恵庭、千歳、野幌、江別の5つの農協に分かれていました。やはり、セイカンとしては通常の営業展開をしていく中でも、重要となる農協については「出向」というスタイルで関わらせてもらおうと考えていました。最初は栗沢(現 岩見沢農協)、次に恵庭、その後長沼だったと記憶しています。私はその辺りと苫小牧地区までを担当していました。
私は「取引するつもりはないから」と言われているところにもずっと通っていましたね。通う中で役職が上の方とお話する機会があって。
私、思っていることは言っちゃうタイプなんですよね。失礼なことも言ってると思うんですが、相手にどう思われるかはあまり気にならなくて。それでカチンとくる人もいれば、悩んでる人にはカチッとハマることがあるんです。
その時も店舗の印象をハッキリと伝えました。そうしたら「どうすればいいと思う?」って話になって、実際に棚の提案とか店づくりに関わらせてもらいました。そこから出向につながったこともありましたね。
まずはコミュニケーションありき
札幌も競合が多く、営業は厳しい面がありましたが、私もその頃20代半ばで、お付き合いしていた農協やメーカーに、ちょうど同世代が多かったのは幸いでした。毎晩飲みに行ってましたね。本当、毎晩ですよ。朝は出社するけど、帰りは直帰して、取引先の農協の近くで飲んで帰る。
農協の職員とは、休日にラフティングしたり、スキーしたり、友達のような関係で付き合っていました。もちろんビジネスパートナーですから、自分の中で一線は引いていましたが、とにかく仲良くなって、そうすると徐々に展示会などにも出られるようになっていきましたね。
人付き合いは得意なほうなんで、先ほども言いましたが、正直に色々喋っちゃう。すると相談されることも増えてくるんです。
休日も農家に手伝いに呼ばれていくこともありましたが、それはまったく苦になりませんでした。対お客様だとしても、本当に親しくなってお互いに何でも相談できるような間柄をつくるというのは、大切です。会長を見てきて、そこはやっぱり真似したいなと思ってきたところですね。会長はカリスマ性というか求心力があって、会長はそのつもりがなくても、慕ってくる人たちがいる。
私は、そういったカリスマ性はないと思っているので、自分から関係性をつくっていくことが好きですね。

農家のためにならないことはやらない
最初は反対していたコンテナ事業
会長が台湾から商品を輸入していたこともあって、その後中国でも機械工具の展示会に視察に行くようになりました。当時、会長が農協からコンテナの製造を依頼されていたこともあって、協力してくれそうなメーカーを探しに行っていたんです。そこで、良さそうなところが見つかりました、と報告したら、展示会で通訳をしてくれていた女性を雇ってすぐに商談にいくと言うんですよ。そんな昨日今日会った人を採用するなんて信じられないと反対したんですけど、会長は彼女がいないと商談できないからってことで即決でしたね。実際それから2人で中国を回って、その場で商談していました。一緒に行った農協の部長は1人で観光ですよ。無茶苦茶ですよね。
私はその時にいろんな農協に電話しろと言われて、どういうサイズが必要かとかいろんなところに聞いてました。
うちは農業機械、営業資材屋だったので、コンテナの知識がまるっきりなかった。当初は反対してましたね。だって「どういうサイズを使ってるんですか」から始まってますから。
できないからやりたくないっていう感覚の方が強かったと思いますが、中国に対する偏見もあったと思います。今はまったく違いますが、その当時の中国に対する感覚っていうのは、品質の面でも下に見てしまうところがあって。それを強引に会長がやってきたから今があるんですが、その時は「やりたくない」っていうのが誰にとっても普通の感覚だったんじゃないんですかね。
しかし、入社した時から農家を取り巻く状況に疑問を持っていたのは確かです。コンテナにしても、市場は独占状態だったので、そこに対しての違和感はありました。そこに風穴を開けるために会長がコンテナ事業に踏み込んだんですよね。当時はセイカンのネームバリューもなくて、しかも中国製だと誰も怖くて手を出せないんですよ。最初の頃は不良品ばっかりでどうなることかと思っていましたが、そこはやっぱり会長がすごい。徹底的に信念をもってやってましたから。

旭川営業所をJA美瑛内に開設
ずっとJA美瑛には営業をしていたんですが、なかなか話がまとまらず、やっと事業でコンテナを入れてもらいました。「お宅が一番安かったから決めたいんだけど、本当に大丈夫かい」って心配されて。コンテナの実績や、セイカンがやっていることを色々と説明して、十勝にも視察に来てもらいました。帯広支店は社員総出で前日から準備をして対応してくれましたね。
実際農家にどう使っていただくか、選んでもらうか、というのが重要だと思うんで、実際の現場を見てもらったりしました。
当初は出向という形でしたが、店舗の運営をやってほしいということになり、現在はうちの店舗のようになっています。

仕事をやりがいに変えるために
いつの間にか「覚悟」ができていた
最初の頃は本当にいつでもやめてやろうとか、農業に縁もゆかりもないしっていう考えはありましたけど、長年続けているうちに、やっぱり俺がやらなきゃならないなっていう感覚がどこかで芽生えたんだと思います。きっかけとなるできごとが特にあったわけではなく、仕事の延長線上にその道があった。
長く課長代理をやっていて、そこから常務になって、副社長になって、2013年に社長交代しましたが、会長が70歳という年齢になって意識したのか。でも、直接しっかりとした継承があったわけではありません。常務や副社長といっても、それは形式だけのことで、給料も仕事内容も変わらなかったですし。社長になったからって直接会長から経営について教わったことはありません。経営会議にしても、会長の判断を聞くだけでしたし。相談される前に、もう会長の中では決まっていることを報告される会議というか。
すごいなと思う部分もあれば、ある意味反面教師にしていた部分もあって、ここはこうしたほうがいいよな、とか。ある意味宿命的なもの、として受け入れていたのかもしれません。他にやりたいことがあったらそっちに行っていたでしょうし。
営業の時からずっとそうだったように、手探りでずっとやってきています。会長のおかげで経験値は人一倍ありますけどね。
「仕事」の捉え方を変えてみる
例えば小さい頃に野球が好きだったら、将来の夢は「野球選手になる!」かもしれませんが、セイカンの仕事が子供の頃からの夢でした!と言うことは、ありえないと思っているんですよね。そもそも、セイカンがやっている仕事ってしょっちゅう業態が変わりますし、コンテナをやったと思ったらトラクターの自動操舵やってみたりとか。
農家が求めるものに応えていく、それが仕事なんですよ。
それって、本当に好きじゃないとできない。でも、これを好きにさせるというか、どうやりがいを持ってもらうのかが自分のやるべきことで、その答えはまだ出ていないです。これだけ多岐に渡る内容なので、「仕事」と思うと辛いことのほうが多いかと思います。
私は若い頃、手伝いに来いって言われたら行ってました。「肉食わしてやるから来い」とか。
そういったことで関係性を作ってたんですけど、今の人がそれをやるかって言ったらやらないはずなんです。休みの日まで、なんで仕事しなきゃならないのか。「仕事」っていう感覚のほうが勝ると思う。
それが仕事じゃなくて、本当に農家とフランクに繋がれて、家族と一緒にその農場に遊びに行くとか。そういった接点が今は低いと思う。農家の忙しい時って我々の忙しい時と重なってしまうので、すぐには実現できないと思いますが、そうじゃない時期に積極的に農家の手伝いをするとか、そういったことを会社としても推奨できれば良いかなと思っています。「農家の役に立っている」と実感できたら楽しいんじゃないかなと思ってはいますが。
仕事をドライに考えたら、それに対しての結果ってサラリーしかない。それってつまらないですよね。お客様に喜んでもらえる、役立てている、と思えることで仕事を楽しいものに変換できたら、変わると思います。
固定概念を捨て何事にもチャレンジする
セイカンにとってやっぱり大切なのは、農業であり農家です。だから、そのためになってないこととはとことん戦うんですよ。変な正義感を持ってるんですよね。ここが悪いから農家の所得が上がらないって気づくと、どうすればいいか、いつも考えています。
新しいことをやってワクワクするのは本当にごく一部の人間で、どちらかというとみんなからすれば大変なんですよね。今までやっている仕事を、減らして新しいことをやるわけじゃないので、どんどん加算されていくじゃないですか。大変なのはわかるんですけど、どうしても衰退してくるものもある。だから、新しいもの、ことにチャレンジしていくっていうのはどんどんやっていかないと。ベンチャー気質なのかもしれないですね。
私自身も新しいことが好きですし。ドローンの教習所も道東でいち早く開設したんですが、知見も足りず、セイカンで普及させることはできませんでした。
これが難しいところで、2番手のほうがいいんですよね。でも私ダメなんですよ。1番手にやらないと気が済まない。
新しいものにすぐ手をつけて、いつも失敗するんです。もうちょっと遅いほうがいいんだなって思うんですけど。でも1番手だからこそ得られる知識があると思うんで。
農業って国の政策によって変わるので、市場や消費者の動向なども含めて、どうなっていくだろうと予測して経営判断します。一つの情報だけだったら判断が難しいので、外に出て人と会うのが自分の仕事ですね。何人かの話を聞いて、つなぎ合わせて、ひょっとしたらこうかもっていうふうに判断する。
そこでぶれちゃいけないのが、「農業、農家に寄り添う」という信念。それがセイカンの良さであると思っています。どうしても今は働き方改革とかコンプライアンスの部分があるので、農家に寄り添おうと思ったら、かなり変則的なものをやっていかないと難しい。
当然、農家は日曜も仕事をやってますし、ただ、民間企業としては人の採用のことを考えると、そこはできないじゃないですか。
今そこのジレンマはありますよね。

社内でのコミュニケーションは今後の課題
それこそ昔は社員同士の付き合いもとても深かったと思います。自宅で新年恒例会をしたり、子どもも連れてきてお年玉やおやつをあげたり。そういう時代でしたよね。会社の規模が大きくなってくるに従って、そういったこともだんだん難しくなってきました。それにコロナがあって、さらにコミュニケーションの機会が減りました。営業に同行するなどして、社員と目線を合わせる機会を持つようにはしていますが、事務所の方など、全員と思いをひとつにする、という場がないので、そういったことはこれからの課題ですね。社員教育にしても、どうしても属人性が高くなってしまう仕事なので「セイカンのDNA」をきちんと引き継いでいかないといけない時期に来ていると思います。
クレームひとつにしても、それにどう対応したかで、「セイカンのこういうところを信じていたのに」と思われてしまうことがある。起きてしまったことの対処はもちろんですが、私はそもそも「なぜ起きたのか」その初動が気になります。そこに問題があると思っているんです。
新しいことを始めることはもちろん大切ですが、「農家に密着した寄り添い方」というスタイルは絶対に失いたくないもので、それがなくなるとセイカンじゃなくなる、と思うくらいに大切にしているものです。
会長が築いてきた歴史は、会長だからやってこれたこと。会長から言われて本当に心に染みてるのは、課長時代に農協や仕入れ先も接待するんですよ。
「うちっていつ接待されるんですか」って会長に聞いたことがあって。
「そういうことを求めるな」って言われましたね。
仕入れ先がなければうちは商売できないし、仕入れ先も大事なお客様。買っていただくところも大事なお客様。だから「接待されることを期待するな」って言われたのは、はっきり覚えています。
会長はメーカーを大事にしていて、仕入れ先がなかったらビジネスにならないということを重要視してるんですよ。
厳しいこと言いますし、求めることは求めますけど、ただすごく大事にしていました。それは、創業した頃、仕入れ先がなくて苦労した過去があるからだと思うんですよ。
「会長は、何回断ってもわざわざ東京の本社まで来てぜひ取引してくれって頭下げに来たよ」とメーカーから聞いたことがあります。かけられた恩は絶対忘れない人ですね。そういった実直さは会長から学んで、私もそうありたいと思っています。

これまでの歴史があって今がある
私が現役の時はECサイトもなければホームセンターもない時代。
セイカンの存在意義は、小回りを利かして動けることだったと思うんですよ。
それが多分求められてて、農家にもハマったんだと思うんです。
今は農家も情報を持ってますんで、その中でセイカンの存在意義をどう出していくのかっていうのは昔とは違ってきてるなと思っています。今までと同じようなことをやっててもだめで。だから、何か農家のみなさまが集まれるような場づくりが必要かなと考えています。
いつも「農家に寄り添いながら」その都度存在意義をつくってきたので、その姿勢はこれからも変わりません。私はずっとそうやってきましたし、これからも、それを地道に続けていくだけだと思っています。

このエピソードのDNA
- わからないことは聞く、調べる、勉強する。数をこなして少しずつ自分の知見にする
- 農業は場所が変われば、作物も栽培方法も何もかもが違う。その場所、その一件に対しての最適はすべて現場にある
- まずは信頼関係を構築するところから始まる
- 農家のためになっているか、とことん考えて実行に移す
- 「農家に密着した寄り添い方」というスタイルを貫く