塚田 冴子

元監査役 People
TSUKADA SAEKO

夫と二人三脚で築いてきたセイカン

塚田英樹氏の挑戦の裏には、いつも妻である塚田冴子氏の支えがあった。会社が苦しい時も、事業を拡大していく時にも、家族を守り、社員を守り、会社のために尽くしてきた。セイカンの挑戦の裏にある、ひとつの家族の姿が浮かび上がってくる。

テキスト:外山暁子
写真:﨑一馬
編集:吉田拓実

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    塚田英樹氏との出会い

    華やかな職場から一転。油まみれのドラム缶工場へ

    今朝会社に向かってきたらね、昔の光景を懐かしく思い出したわ。

    あの頃はまだこの辺りも砂利道でね。線路があって、あそこに消防署があって、そこにはスタンドがあって、そして、ここには小さな古い建物の社屋と工場があってね…。

    それから考えると、この辺りも変わったなあって思いながら来ました。

    私が入社したのは、1969年(昭和44年)の夏ごろ。小さな事務室で仕事をしているのは私ともう1人くらい。隣に休憩室兼宿直室があって、簡単な台所とお風呂がついていたの。当時は毎日交代で宿直者がいたのね。社屋はそれだけ。ドラム缶の洗浄工場が隣にあったので、そこで働いていた人は夫もあわせて10人くらい。小樽の本社に創業者の五郎さんと経理の人がいてね。本当に小さな会社からのスタートでした。

    創業当時の社屋と工場。「本当に小さな事務所だったんだよね」と懐かしむ。

    主人と出会ったきっかけは、彼が以前に勤めていたキャタピラー三菱(現日本キャタピラー)に妹夫婦も勤めていて、ちょっとした追突事故を起こしたんです。その時に車を借りたり、お世話になったのが主人だったんです。「すごくやり手の人だよ」とは聞いていたんですが会うのは初めて。

    その頃私は、3、4年勤めていた藤丸デパートを辞めて、次の働き先を探そうと思っていた頃でした。「会社の事務員がいないから手伝ってくれないか」と頼まれたの。後で聞いたら、すでに決まっていた人がいたようだったのですが、繋ぎ止めておきたかったのかな?それがきっかけになって働き始めたんです。

    出会ってから半年でのスピード婚

    その後、9月には結婚を申し込まれて、1970年(昭和45年)の2月に結婚しました。すごく決断が早かったから、私のほうが「後悔しても知らないよ」って言っちゃいました。「後悔しないよ」って言ってくれてましたけど。

    当時はドラム缶洗浄の会社ですから、工場の仕事は油まみれでしょう。ドロドロの作業着で銀行に行ったら、まわりがさーっと引いちゃう時もあったみたいで。スーツに着替えて行っては、また戻って着替えて工場に行ったり…。所長として営業もするし、洗浄の仕事もするしだから、とにかくあっちこっち行って忙しくて。大変な仕事だなあとは思っていました。五郎さんは、ほとんど小樽本社にいたので、実質こちらを切り盛りしているのは主人。できたばかりの会社だったし、彼は十勝に知り合いもいない。日々の業務を必死にこなしている、そんな毎日でしたね。

    札幌市内で開かれた結婚披露宴。初々しい2人の姿。

    家庭生活のすべてが仕事だった時代を支えて

    家事も育児も社員の世話も1人で担ってきた

    新婚旅行に行ったのも束の間、帰ってきたら、主人がいなかったこともあって社員同士で揉めることがあったみたいで、1人ずつ自宅に呼んで食事を作って食べさせながら話を聞いて。どんな不満があるのか、悩みがあるのか、どういうふうにやっていけば良いのか、一人ひとりと話をしていましたね。とにかく、社員に対しては熱い思いがある人、それは昔も今も変わらないわね。

    ドラム缶洗浄は12月が忙しくてね。特に年末。だからお餅つきの時期にも働かなくちゃいけなくて、社員に申し訳なくて。会社の鏡餅は私が作っていましたが、社員にはお餅代を配っていたこともありました。それも主人の気配りです。その頃私は働いていなかったんですが、秋には秋味鍋を作って運んだり、主人が札幌方面に出張に行って留守の時には、おやきやシュークリームなんかの差し入れを持って顔を出したりしてね。やっぱり社長がいないと締まりがなくなるじゃない?主人も外で頑張っているから、みんなも頑張ってね、と言う気持ちでやっていました。

     

    お正月には毎年自宅に社員を招いて新年会。20年くらい前まで続けていました。テーブルを4つくらい繋げて、20人くらい集まってね。料理を作って振る舞ってカラオケを歌ったり。新年は毎年そうだから、家族のお正月の時間はなかったわね。今なら考えられないでしょ。全部1人でやってましたから。

    小樽らしい郷土料理で主人が好きだったのは「鯨汁」。私は知らなかったけど、海育ちの人だからね。鯨の脂を切って、ごぼうやいろいろな野菜を入れてお醤油味で食べるの。主人は「美味しい美味しい」って食べてたけど、社員はあまり美味しいって言わないもんね。それから何年かして作らなくなっちゃった。

    札幌支店移転祝賀会で来賓を迎える塚田英樹氏と冴子氏。右は創業時から経理を支えた永井氏と高橋文男 元専務取締役

    取引先の方やメーカーさんが遠くから来るでしょ。宿泊代を節約するために家に泊まらせてご飯を食べさせてね。当時は夜行列車があったから、朝4時とか5時に帯広駅に着くのよ。それを迎えに行って朝ごはんを作って食べさせたりしたことも。それも、急に言われるんだから。その頃車の免許も持っていなかったし、冷凍庫もないし。お店だっていつでもやってないでしょ。まず冷蔵庫に何があるかな、卵何個あるかなって考えて…。涙が出てきちゃったこともあるわよ。
    でも、その頃は、それがあたりまえだと思ってやっていたから、大変さはあまりわかりませんでした。主人も必死だったけど、私も必死でやってましたね。主人のことを好きも嫌いも考える暇もなかったんです。

    「振り返ると大変だった」と言う冴子氏だが、当時は「当たり前」のこととして夫と共に会社を盛り立てていた。

    たった一回の家族旅行

    1970年に長男真敏(現社長)、73年に次男博信(現副社長)が生まれてからも、主人はいつも仕事で家にいないことが多くて、夜ご飯を家族で食べた記憶がほとんどない。帰ってきては、いろいろと仕事の愚痴や言いたいことをばーっと喋るでしょ。子どもたちも「いつも怒っているなあ」と思っていたはず。

    私の母親がまだ元気だったから、大事なお客さんのところに行く時は、母に子どもたちを預けて接待に付いて行ったり、その頃はお中元やお歳暮も直接2人で届けに回っていたの。

    長男がまだ小さい頃に一緒に車に乗っていって、主人がお客さんのところから1時間以上も出てこなくてね。冬だったんだけど、暖房の操作もよくわからなくて寒い思いして待ってたの。出てきた時にお客さんも一緒で「うわ! 子ども連れてきてたんでしょ!」って驚いてました。仕事だから「連れてきてる」って言えなかったんでしょ。

    そんな日々だから、家族で夕飯はもちろん、どこかに行くと行ってもお盆に小樽に帰省するぐらい。それが、ある時急に予定が空いたから「家族旅行に行こう」って、阿寒に一度だけ行ったことがあるの。子どもたちも「小樽じゃないところに行った!」という記憶が残っているみたい。それも、思い立って行くものだから、当然宿も予約していなくて、みんなで「空室あります」というところを探したことが思い出ですね。どこかに出かけても、電話をかけたりかかってきたりが多くて。

    とにかく家庭よりも仕事。仕事が一番の人ですね。

    若き日の塚田英樹と真敏(写真右)、博信(写真左)。

    創業者の死と債務超過の時期に切り出された離婚

    「命まで取られるわけじゃない」

    経営的に一番大変だったのは、五郎さんが亡くなった頃ですかね。会社の業績もまだまだなのに、加えて借金や小樽容器工業という会社の精算も終わっていない状態。五郎さんからは「英樹なら大丈夫だ」と言われていたみたいだけど、プレッシャーは相当あったと思います。

    普段は夜の席のお付き合いでも飲み屋の子にこっそりお茶を入れてもらっているくらい、お酒は飲めない人なのに、一度だけお酒を飲んで「苦労をかけるから」と離婚話を切り出されたことがありました。私は「命まで取られるわけじゃないから大丈夫」と答えました。だいぶ後になってから「その言葉で救われた、助かった」と言ってくれましたね。そのくらい追い詰められていたんだな、と思います。

    周りから見たら「商売やっているから優雅でしょう」って言われていたけど、決して優雅ではなかったからね。
    常に新しいこと、新しい情報がないか、自分の目で、耳で、足を運んでいる人でしたから、何か考えている時、悩んでいる時は顔見たらわかりましたね。ずっとイライラしているし、寝言にも出てくるくらい。そう言う時は私からは何も言わない。「お前なんてわかってないくせに」って言われるから、黙って声をかけないようにしてました。主人は1人で静かな場所に行って気持ちを落ち着かせて、悩んで悩んで考えるタイプ。それでも本当に困ったら、私にちょっと言うこともありましたけど、私は「悩むなら辞めたら」と、つらっと言っていたから。顔を見れば何に悩んでいるのかはわかるし、苦しんでいるのもわかるけど、あえて私は何も言わない。主人ならきっと、筋道を立ててやっているんだろうから大丈夫、と信頼していましたね。

    旧社屋前に立つ塚田冴子氏。明るく朗らかな雰囲気の女性。

    「仕事が趣味、趣味が仕事」の夫と共に

    デートは農協への視察ドライブ

    40代〜60代前半は、ゴルフとかお付き合いで出かけることが多くなりましたね。ゴルフは趣味というより仕事の一環として参加していました。一度、主人が出張中で私が出たこともあるのよ。「社員じゃなくて奥さん出せばいい」って、私が練習しているのを知っている農協の方に言われてね。私はコースに出たことがなかったから受付の仕方もわからなくて。誰が誰かもわからない中でやっていましたね。

    昔は飲み会や麻雀もあったから、とにかく夜や休日も仕事ばっかりでしたね。もう少し自分の時間を楽しめばいいんじゃないのって思うけど、本人はそれが全く苦になってない。むしろ、3日も休みがあったら、持て余しちゃって大変よ。仕事が好きなのね。お金には頓着がないんだけど、自分は土台になればいいって感じで、少しでも事業を大きくしようとしてた。大きな仕事が決まったり、何か良いものを見つけたり、良い人に出会えるとうれしそうにしてましたね。

    コンテナが始まった頃はね、とにかく休みの日でも「ドライブに行こう」って言うの。デートじゃないのよ。行き先は各農協。そこにあるコンテナを見たり、農産物を見て「今年の作況はこうだ」とか話して。現場が好きなのね。もちろん会社の製品も見ているし、どこかライバル会社のコンテナが入っていないかとか、そう言うのを見てますね。

    農協の庭先(ヤード)や畑には、さまざまな農作物のコンテナが並ぶ。その様子を見るのが楽しみのひとつ。

    家業を継いだ息子たちに思うこと

    子どもたちが会社に入ることには、私は反対でした。大変さを見てきているし、会社は会社で、家庭は家庭でしょ。社内の人間じゃなかったら、兄弟同士でなんでもないことも普通に話ができるんじゃないかなって思うけど。私は主人の代だけで良かったなと思っていました。

    でも今は、息子たちも頑張ってくれているし、それでいいんじゃないかなと思うようにしています。主人はとにかく孫が可愛くて、孫には継がせたいと思っているみたいですけどね。

    結婚からすでに50年以上。なんせ主人が一生懸命やってきたなって思います。300坪の土地の小さい事務所から始まってよくここまでにしたなと。今は耳も遠くなってしまったから、それもストレスなんだと思うけれど、まだまだ現場にいたくて、会社に来てみんなの顔を見たらホッとするんだと思います。去年は熊本の展示会に一緒に行ってきました。常に新しい情報を求める気持ちだけはあるみたい。身体が付いてこないことも増えましたけどね。だいぶ丸くなりました。若い頃は本当に激しい人でしたから。
    ここまでやってこれたのは、とにかく、人に恵まれてきたこと。それが主人の一番の財産かな。本人もよく「社員にもお客さんにも恵まれた」と言っています。特に社員には、感謝していると思います。よく付いてきてくれたなって。情が深い人だから社員のことは、いつも一番に考えてきました。社員の方が何か迷う時があっても、主人が「大丈夫」って言うと、みんな安心して動ける。そんな不思議な魅力のある人ですね。これからも、小さな喧嘩はあると思いますが、一緒に過ごしていきたいですね。

    「2人で写真撮ることなんてないわね」と言いながら仲良くツーショット。現社屋前にて。

    このエピソードのDNA

    • 目の前にあることを当たり前だと受け止めて、ひたすら向き合う
    • 信頼すること、信じることの強さ
    • 周囲の人に感謝し、お互いに思いやり助け合う